三貴子とは|天照・月読・須佐之男の誕生と禊、手水の起源

三貴子(さんきし・みはしらのうずのみこ)とは、伊邪那岐命(イザナギ)が禊を行った際に生まれた、天照大御神・月読命・須佐之男命の三柱の神のことです。『古事記』では、黄泉の国から戻ったイザナギが筑紫の日向の阿波岐原で身を清めたとき、左目から天照大御神、右目から月読命、鼻から須佐之男命が生まれたと語られます。神社の手水は、この禊を簡略化した作法と伝えられており、私たちは参拝のたびに、この神話の場面を小さくなぞっていることになります。

三貴子誕生の前段、黄泉の国の物語

三貴子の誕生を語るには、その前段から始める必要があります。国生み・神生みを終えたイザナギ・イザナミの二柱のうち、イザナミは火の神を生んだことがもとで命を落とし、黄泉の国へ去ります。イザナギは妻を連れ戻そうと黄泉の国を訪ねますが、変わり果てた姿を見て逃げ帰り、黄泉平坂で二人は別れの言葉を交わすことになりました。

地上へ戻ったイザナギは「いなしこめしこめき穢き国に到りてありけり」、つまり穢れた国に行ってしまったと言いました。そして筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(あわきはら)で禊祓(みそぎはらえ)を行います。水に入って心身の穢れを洗い流す「禊」の、これが神話上の起源とされる場面です。

禊の途中でも、脱いだ衣や杖などから次々に神々が生まれました。瀬の深いところ、浅いところで身をすすぐたびに、禍を直す神々や、海を司る綿津見の神々、住吉の三神などが成ったと『古事記』は記しています。

黄泉の国の物語には、印象深い細部が数多くあります。イザナミは黄泉の国の食べ物を口にする「黄泉戸喫(よもつへぐい)」をしてしまったため、容易には戻れないと告げます。逃げるイザナギは、追いすがる黄泉醜女に髪飾りや櫛を投げて山葡萄や筍を生じさせて時を稼ぎ、黄泉比良坂の坂本では桃の実を投げて追手を退けました。このときイザナギは桃に「人々が苦しむときに助けよ」と命じたと『古事記』は記しており、桃を邪気を祓う果実とみる古い観念がうかがえる場面です。

左目から天照、右目から月読、鼻から須佐之男

禊の最後、イザナギが左の目を洗ったときに成ったのが天照大御神、右の目を洗ったときに成ったのが月読命、鼻を洗ったときに成ったのが建速須佐之男命でした。イザナギは「吾は子を生み生みて、生みの終てに三はしらの貴き子を得たり」と大いに喜んだと記されます。「三貴子」という呼び名は、この言葉に由来します。

イザナギは首にかけた玉の緒を天照大御神に授けて高天原を、月読命に夜の食国(よるのおすくに)を、須佐之男命に海原を、それぞれ治めるよう委任します。太陽と月と海。世界の運行が三柱に分け与えられた場面で、神話はここから天照大御神と須佐之男命の物語へと大きく動いていきます。

ただし須佐之男命は命じられた海原を治めず、亡き母のいる根の国へ行きたいと泣き続け、イザナギの怒りを買って追放されます。この漂泊が、のちの天岩戸神話や八岐大蛇退治へとつながっていくのです。

なお『日本書紀』の本文では、日の神・月の神らはイザナギ・イザナミ二神が相談して生んだと語られており、禊から成るという劇的な形は『古事記』の語りです。同じ場面でも書物によって表情が変わることは、記紀を読む楽しみのひとつといえます。また、昼と夜と海がそれぞれの神に委ねられるという構図は、性格の異なる力が並び立って世界が保たれる、という古代の秩序の表現と読まれてきました。

月読命という静かな神

三貴子のうち、月読命だけは『古事記』でほとんど物語を持ちません。夜の国を委ねられたという記述のあと、表舞台にはほぼ登場しないのです。太陽の天照大御神、嵐のような須佐之男命という動の神々に対して、月読命は静けさそのものを体現する神といえます。

『日本書紀』の一書には、月読命が保食神(うけもちのかみ)のもとを訪ねる異伝が載り、食物の起源と関わる神として語られる場合もあります。伊勢神宮の内宮・外宮それぞれの別宮に月讀宮・月夜見宮が鎮まり、今も静かな信仰を受けています。

語られないことは、軽んじられていることではありません。夜と月の満ち欠け、すなわち目に見えて数えられる時間を司る神として、月読命は暦や農事とともに生き続けてきたと考えられています。

「つきよみ」の名は、月を「読む」、すなわち月齢を数えることに由来するという解釈が古くからあります。太陰暦の時代、月の満ち欠けはそのまま日付であり、種まきや漁の時機を教える生活の物差しでした。京都・松尾大社の摂社である月読神社も、この神をまつる古社として知られています。華やかな物語こそ持たないものの、月読命への信仰は、夜空を見上げて暮らしの調子を整えてきた人々の営みとともにあったといえます。

手水は、禊を簡略化した作法

神社の入口で手と口を清める手水は、この阿波岐原の禊を簡略化した作法と伝えられています。本来は川や海に全身を浸して行う禊を、柄杓一杯の水で行えるよう整えたもの。つまり手水舎は、境内に設けられた小さな阿波岐原なのです。

左手、右手、口、左手の順で清めるひとときは、イザナギが水に入って穢れを流し、その果てに最も貴い三柱が生まれたという物語を思い出す時間でもあります。形だけの所作と思えば数秒の手続きですが、由来を知って行うと、鳥居の内と外で心の切り替わる感覚が確かに変わってきます。

作法の細部をひとつ添えると、柄杓に直接口をつけないこと、使い終わりに柄杓を立てて柄に水を流してから戻すことも、次に使う人への心配りとして大切にされてきました。禊の由来を知ることと、隣り合う参拝者への気遣い。この二つは、清めるという同じ心の二つの表れです。

禊を今に伝える場所として、天照大御神をまつる伊勢神宮の内宮では、五十鈴川の御手洗場で川の水に手を浸して心身を清める習わしが続いています。また熊野本宮大社の家都美御子大神は須佐之男命と同一視される説があり、白山比咩神社はイザナギ・イザナミの物語と縁の深い菊理媛尊をまつります。三貴子の物語を胸に訪ねたい社です。

禊から成った住吉・綿津見の神々と大祓

三貴子の直前に成った神々にも目を向けてみましょう。イザナギが水の底、中ほど、水面でそれぞれ身をすすいだとき、海を司る綿津見三神と、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の住吉三神が対になって成りました。綿津見の神々は海人の信仰の源流に、住吉三神は航海の守り神として大阪の住吉大社などにまつられ、いずれも海とともに生きる人々の祈りを受け続けてきました。

また、穢れがただ祓われるだけでは終わらない点も見逃せません。黄泉の穢れからは禍を司る禍津日神が成り、続いてその禍を直そうとする神直毘神・大直毘神が成った、と『古事記』は記します。穢れは避けがたく生じるけれども、それを直す力もまた同じところから生じる。禊という営みの核心を、神々の名前の連なりで語った場面といえます。

神社で唱えられる大祓詞の祓えの情景も、この阿波岐原の禊と重ねて理解されてきました。6月と12月の晦日に各地の神社で行われる大祓は、半年分の罪穢れを祓い清める神事です。三貴子誕生の物語は、遠い神代の話であると同時に、今日の神社の祭りの中に息づいている物語でもあります。

阿波岐原の伝承地を訪ねる

禊の舞台「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」がどこかについては古来諸説ありますが、ゆかりの地として広く知られているのが宮崎市の江田神社の周辺です。イザナギ・イザナミをまつるこの古社の近くには「みそぎ池(御池)」と呼ばれる池が残り、イザナギが禊を行った地と伝えられて、木々に囲まれた静かな祈りの場になっています。

神話の舞台を特定の土地に結びつける伝承は、物語をただの文字ではなく、風景として体験させてくれます。池のほとりに立ち、ここで三貴子が生まれたと伝えられてきたのかと思い描く時間は、書物を読むのとはまた違う神話との出会いです。

みそぎ池の周辺は市民の森として整えられており、木漏れ日の遊歩道を歩いて訪ねられます。観光の名所というより、土地の人々が静かに守ってきた場所ですので、祈りの場にふさわしい落ち着いた振る舞いで訪ねてください。

もっとも、伝承地を巡れない場合でも、三貴子の物語はいちばん身近な場所で追体験できます。それが冒頭でも触れた、神社の手水です。次の参拝で柄杓を手にするとき、阿波岐原の水辺を少しだけ思い出してみてください。

よくある質問

Q. 三貴子は何と読むのですか。A. 一般には「さんきし」と読みます。『古事記』のイザナギの言葉に基づいて「みはしらのうずのみこ」と訓読みする場合もあります。どちらも天照大御神・月読命・須佐之男命の三柱を指す言葉です。

Q. 三柱は目や鼻から生まれたとは、どういう意味ですか。A. 『古事記』の記述をそのまま伝えたもので、イザナギが顔を洗い清めた、その最も清らかな仕上げの場面から最貴の神々が成った、という語りです。一説には、左を尊ぶ古代の観念から、最も尊い天照大御神が左目から生まれたと解釈されています。

Q. 手水を丁寧にすると、ご利益は変わりますか。A. ご利益の大小を約束するものではありません。ただ、手水が禊の簡略化である以上、そこは参拝の飾りではなく本体の一部です。由来を知って丁寧に行うことは、祈りの時間を整えるうえで確かな意味があると考えられてきました。

Q. 三貴子をまつる神社はどこにありますか。A. 天照大御神は伊勢神宮の内宮をはじめ全国の神明社に、須佐之男命は八坂神社・氷川神社・津島神社などの系統の社にまつられています。月読命は伊勢神宮の別宮である月讀宮・月夜見宮のほか、京都の月読神社などにまつられ、今も静かな信仰を受け続けています。

本記事は神社の由緒・一般的な参拝作法・古典に基づいて構成していますが、 ご利益や効果を保証するものではありません。悩みが深いときは、 信頼できる人や専門機関に相談することも大切にしてください。